方谷さんを大河ドラマに!
山田方谷は、備中松山藩の財政改革を行い、また教育者として多くの優秀な人材を育成した、江戸時代の陽明学者、教育者、政治家です。
方谷が長岡藩士の河井継之助に贈った言葉「至誠惻怛(しせいそくだつ)」は、方谷の精神を表す有名な言葉であり、まごころ(至誠)と、いたみ悲しむ心(惻怛)の2つを兼ね備えて生きることが、人としての基本姿勢であると説いています。
方谷の改革理念や生き方を全国的に周知するために、平成24年9月26日、「方谷さんを広める会」が中心となって「雲中の飛龍 山田方谷」NHK大河ドラマ実現を求める全国100万人署名運動実行委員会を組織しました。以降、岡山県内外の企業・団体・個人などに署名を募り、令和元年9月に、目標となる100万人の署名を達成しました。
そのほかにも大河ドラマ化に向けて、さまざまな取組を実施しています。
山田方谷の生涯
方谷は、1805(文化2)年に備中松山藩の西方村(現在の岡山県高梁市)に生まれました。5歳になると、新見藩の儒学者である丸川松隠に学び、その後、25歳の若さで備中松山藩の藩校「有終館」の会頭(先生)、32歳で学頭(校長)を命ぜられました。1849(嘉永2)年には、備中松山藩主・板倉勝静から元締役兼吟味役(※)を任され、藩の財政改革に着手しました。「贅沢や不正を禁止」、「負債整理」、「産業振興」、「藩札刷新」、「士民撫育」、「文武奨励」といった改革を次々と行い、10万両(現在の貨幣価値にして約300億円)もの借金を抱えて財政破綻寸前だった藩を、わずか8年で立て直しただけでなく、その上に余財10万両を残しました。
また、教育者としても知られ、1868(明治元)年に現在のJR方谷駅近くに「長瀬塾」を、1870(明治3)年には新見市大佐小阪部に移住して「小阪部塾」を開き、多くの優秀な人材を育成しました。
その後、1877(明治10)年、73歳のときに小阪部塾でその生涯を終えました。
※元締役:藩財政運営最高責任者(現在の財務大臣にあたる)
吟味役:元締役の補佐役
市内関連施設は、下記リンクをご覧ください。
新見市公式観光サイトえ~とこ新見「山田方谷記念館」
大河ドラマ化に向けた取組
本市においても、山田方谷の大河ドラマ化の実現に向けて、PR活動に取り組んでいます。【令和5年5月11日】
戎市長が岡山県知事や高梁市長ら官民組織の代表者とともにNHK本社(東京)を訪問し、大河ドラマ化の要望を行いました。
今後も要望活動を継続してまいります。
【令和5年4月】
山田方谷記念館の顕彰活動の一環として、記念館敷地内に看板を設置しました。
この看板はアルミ製で、地元企業の技術力を活かし、山田方谷の肖像画をパンチングメタル技術により表現してしています。
大きさは縦3メートル、横2メートルと迫力があります。
これまでの取組
【令和3年11月8日】戎市長が岡山県知事や高梁市長とともにNHK本社(東京)を訪問し、大河ドラマ化の要望を行いました。
NHK側からは『地元の熱意は十分に伝わっている』との回答があり、さらなる機運醸成に努めます。
【令和3年10月9日】
広島県のマツダスタジアムでプロ野球公式戦と合わせて行われたイベント「わがまち魅力発信隊」において、来場者に、大河ドラマ化の実現をPRするためのポケットティッシュやクリアファイルを配布しました。
方谷さんのことを、たくさんの方に知っていただく機会となりました。
【令和3年9月29日】
大佐山入口付近の県道沿いに、山田方谷記念館の看板を設置しました。
記念館では、方谷さんの人となり・財政改革の手法・年表などのグラフィックパネルや山田方谷が書いたとされる大政奉還上奏文の草案などが展示されています。
ぜひ、ご来館ください。
【令和3年9月25日】
JR岡山駅東口において、大河ドラマ化の実現に向けて、関係者一同でPR活動を行いました。
高梁市のPRキャラクター「ほうこくん」も来てくれました。
【令和3年9月24日】
大河ドラマ化に向けた機運の醸成を図るために、JR新見駅前の昭和橋や市役所本庁舎入口などに「のぼり」を設置しました。
大河ドラマ化実現のために、新見市の機運を醸成しています!
※新見駅や昭和橋に設置したのぼりは撤去済
【令和3年7月2日】
JR新見駅構内および市内図書館・図書コーナーに、PRコーナーを設置しました。
新見駅構内にはパンフレットやのぼり、山田方谷ゆかりの地などを紹介したパネルを設置し、図書館・図書コーナーには、山田方谷関連の書籍を展示しています。
この機会に、方谷さんのことを身近に感じてください。
※新見駅構内のPRコーナーについては、9月1日に撤去済
このページに関するお問い合わせ先
総務部 総合政策課
電話 0867-72-6143