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備中国新見庄

2017/07/04

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【新見庄】
 
 新見庄は備中国北部、新見市西方付近から千屋、神郷高瀬に広がる大きな荘園で、平安時代の終わりに、現地の豪族・大中臣孝正によって開発が行われ、やがて皇室の領地である最勝光院領となり、鎌倉時代後期に、皇室から東寺へ寄進され、以後、荘園の歴史の終わる戦国時代末期まで、東寺の支配下におかれてきました。荘内では鉄、漆、ろう、紙などの特産物を有し、舟運も開かれていました。
 新見庄は、わが国の荘園のなかでも、その歴史を物語る史料が豊富に残されており、わが国全体の中世の歴史を解明するうえからも注目されてきました。新見庄に関する史料は、かつての荘園領主であった京都の東寺(教王護国寺)に約2千点が残されており、それらは、「東寺百合文書」や「教王護国寺文書」の名称で一括されて、京都府立京都学・歴彩館や京都大学に保存されています。この中には、有名な土一揆に関した連判状や、荘域全体を記した鎌倉時代の検地帳、室町時代に京都東寺から赴任した代官祐清の不慮の死を悼んだ新見の女性「たまがき」が形見の品を望んだ「たまがき書状」などがあります。



【東寺百合文書と世界記憶遺産】

 平成27年10月10日、ユネスコ(国連教育科学文化機関)は新見庄関連資料を含む国宝「東寺百合文書」を、世界記憶遺産(現世界の記憶)に登録しました。「世界記憶遺産」は平成4(1992)年にユネスコが始めた事業で、人類が後世に伝える価値のある世界各国の文書,書物,楽譜,絵画,映画など,動産の記録物を最新のデジタル技術を駆使して登録・保護し、研究者や一般人に広く公開することを目的にしています。
 「東寺百合文書」は、京都東寺に伝えられた約2万5千点に及ぶ古文書をさします。奈良時代から江戸時代までの約900年間の宗教活動や寺院経済に関する史料からなっており、寺の諸行事の記録のほか、全国およそ80カ所の東寺領の荘園内での出来事や領民の暮らしぶりが記され、単に寺院史研究というだけでなく、中世の政治、経済、社会史の幅広い文献資料となっており、全国の荘園を研究する上で貴重な史料となっています。文化財保護を目的に昭和42(1967)年京都府の所蔵になり、京都府立総合資料館(現・京都府立京都学・歴彩館)に保管され、昭和55(1980)年には国指定重要文化財に、平成9(1997)年6月には国宝の指定を受けました。

【たまがき書状】

 今から約550年前、室町時代中期の寛正年間(1460-1466)、備中国新見庄に、荘官で惣追捕使を務めていた福本盛吉の妹で「たまがき」という女性が暮らしていました。そのころの新見庄は、幕府方(地頭方)の相国寺と領家方の東寺の支配に分かれており、領家方では備中国守護細川氏の家臣・安富智安が代官となり厳しく年貢を取り立てていました。しかし、東寺へは納めず、私腹を肥やしたり細川方の勢力を養っていました。それに怒った農民たちは、公文、田所、惣追捕使の三職とも結託し、土一揆を起こして代官を追放、また東寺に直接支配を要求する手紙を何度も送りました。
 寛正3(1462)年8月、東寺は新見庄を直接支配するため、代官として僧祐清を新見庄に派遣しました。その祐清の身の回りの世話をしていたのが「たまがき」という女性でした。代官として赴任した祐清も年貢の取り立てを厳しくおこない、年貢を納めない名主(節岡名主豊岡三郎)を罷免したことから名主や名主の親戚、領家方の農民たちからも恨まれていました。着任から1年後の寛正4(1463)年、馬に乗り領内の見回りの途中、地頭方の谷内地区を通りかかった時、家の普請をしている時は馬から下りて通るのが礼儀だ、といいがかりをつけられ、斬り殺されてしまいました。これは、祐清に罷免された名主・豊岡の親戚が仕組んだことでした。
 たまがきは祐清の死を悲しみ、形見分けを請う書状を東寺に送りました。この書状には、祐清の葬儀に使用した衣服やその費用として売却した品々が書かれており、「白小袖」「紬の表」「布子」の三品を形見に貰いたい旨のことが書かれており、美しく流麗な書体にしたためられたこの書状には女性らしい切ない想いが込められています。  この書状は中世の農村女性の書いた手紙としては全国的にもめずらしく、「たまがき書状」と呼ばれています。  
たまがき書状「京都府立京都学・歴彩館 東寺百合文書WEB から」


たまがき書状訳



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担当課 産業部商工観光課
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FAX:0867-72-6181

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