山田方谷
(新見市 山田方谷記念館)

 山田方谷座像




山田方谷とは
 山田家は清和源氏の流れを汲む元武家の家であったが、方谷が生まれるころは百姓として生計をたてていた。
 方谷はお家再興を願う父、五郎吉(菜種油の製造・販売を家業とする農商)の子として備中松山藩領西方村(現在の岡山県高梁市中井町西方)で生まれる。
 20歳で士分にとりたてられ、藩校の筆頭教授に任命された。その後藩政にも参加、財政の建て直しに貢献した。
 幕末の混乱期には苦渋の決断により藩を滅亡から回避させることに成功。
 しかし、明治維新後は多くの招聘の声をすべて断り、一民間教育者として亡くなった。(wikipediaより)
大佐 山田方谷記念館
 山田方谷記念館遠景つる 山田方谷書山田方谷記念館展示物山田方谷記念館展示物
大佐山田方谷記念館には、
 ・山田方谷の財政改革の手法、教育者としての山田方谷
 ・年表などのグラフィックパネル
 ・方谷山田先生遺蹟碑拓本複製
 ・ビデオコーナー(10分、 20分)
 ・山田方谷が書いたとされる大政奉還上奏文の草案、書
 などが展示されている。

 また、山田方谷に関する研究参考図書の展示販売も行っている。 
 2023年(令和5年)2月1日、名誉館長に山田方谷6代目直系子孫の
 野島 透氏が就任。 

☆入館料  300円(ただし、身体障害者手帳・精神障害者保健福祉手帳・療育手帳をお持ちの方は免除)

☆休館日   毎週月曜日、火曜日(祝日・休日の場合は翌日)、年末年始(12月28日~1月4日)
☆開館時間  午前10時から午後4時

◆問い合わせ先  大佐山田方谷記念館 電話 0867−98−4059
                          住所 岡山県新見市大佐小南323−3 
 
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方谷庵
 方谷庵(新見市大佐小南 金剛寺境内)
 明治3年(1870)山田方谷66歳の時小阪 部(現新見市大佐)に移寓し、母の実家西谷家の墓地がある金剛寺(現新見市大佐小南)の境内に小庵継志祠堂を建て、外祖父母の霊を祠った。
 方谷は、毎月何回かこの継志祠堂にお参りして瞑想にふけっていたそうである。
 方谷はこの継志祠堂を「方谷庵」と命名した。
 なお、方谷庵は、昭和40年2月24日岡山県指 定文化財史跡に指定されている。
 方谷園
 方谷園
 明治3年(1870)山田方谷66歳の時小阪 部(現新見市大佐)に移寓し小阪部塾を開いた。
 その当時、塾生は約300人。県内はもとより、播磨(兵庫県)、京都、伊勢、尾張(愛知県西部)、
 越前(福井県東部)、武蔵(東京都、埼玉県)等々全国各地から方谷の名声をしたって小阪部塾を訪れた。
 方谷園は、小阪部塾の跡地を整備し公園としたものであり、園内には、「方谷山田先生遺蹟碑」が建っている。
方谷山田先生遺蹟碑
遺蹟碑 遺蹟碑拓本複製
 方谷園内に建っている高さ10mの花崗岩で造った四角柱の遺蹟碑で,方谷が息をひきとった枕辺の地点に建てられている。
 題字は勝海舟の隷書の揮毫で,撰文は山田方谷の高弟であった三島中州,書は貴族院議員金井之恭,刻字は倉敷の名石工の藤田市太郎である。
漢文碑 訳文要旨
(文学博士 山田 琢 先生の訳文から)

我が方谷山田先生は、備中松山藩主板倉勝清の富国強兵政治をよく輔佐し、その成就後は引退し郷里の西方村で家塾を開校した
学徒は各地から集まり読書の声が山谷に鳴り響いていた
 暇には新田を開墾するなど家運を盛んにした上、山田家を嗣子の明遠に譲り、先生は母の出生地刑部に移住した
 先生は明治三年十月刑部において、母方の西谷家が絶えていたところを再興し、刑部塾舎も棟を並べ常時数百人が学ぶにぎやかな村とした。
 先生は外祖父母の忌日には、小南村の金剛寺に必ず墓参した。先生は供の童に、墓表の文を指さして『これは私の師匠丸川松隠先生の子息慎斎が八歳のとき書かれたものだ』と久しく物思いにふけっていた。また墓側に小庵を建てたが、ここに静坐し思いをこらして、祖先の霊が在すごとくに傷み悲しんでおり、供の童は思わず感興した
 やがて田地を購入、家屋を建築、新見村の林謙作の次男巻太郎を養子にして、先生の親戚の小野定一郎の娘と結婚させたうえ西谷家を継がせた
 明治十年六月二十六日先生はここに逝去し、嗣子の明遠が柩を奉じて西方村に葬った
 門人らが刑部の学塾の傍らに石遺蹟碑を建て、私(三島中州)に銘文撰述依頼があった
 思えば先生は藩主をよく輔佐し祖先によく奉仕して、忠と孝を兼ねてまっとうした。
 先生の名は「球」、字は「琳卿」、号は「方谷」山田氏である。その学問と事業は藩祖廟(高梁市・八重籬神社)の側の大碑に詳しく記しているので省略するが、銘文は左のとおりである
 忠孝を述べる学者は多いが、言葉だけで実行がともなわない。先生はこれを実践躬行した
 その人柄がそのまま手本であり、説く必要はない。後世の人々が感奮するのはもっともなことである
 先生は今は亡いが、永久にその典型は存する。銘は千古に伝わり、忠孝の碑は滅びない
 明治二十九年十二月東宮侍講正五位三島毅撰 貴族院議員錦ケイ間祇候正四位勲三等 金井之恭書 倉敷 藤田市太郎刻

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